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古座街道

古座川、周参見川に沿って古座川町からすさみ町へ抜ける県道佐本深谷三尾川線約7kmが「古座街道」です。かつて熊野古道「大辺路」の海が荒れたときの避難路として使われていたと伝わるこの街道は、作家司馬遼太郎さんも好んで旅したそうで、著書「街道をゆく」シリーズにも登場しています。
街道沿いには、一枚岩や集落跡など、日本の原風景が残っています。(2011.4.4)

耳より情報

宇津木の矢倉神社

古座川町宇津木地区には河内祭で有名な「河内神社」と「矢倉神社」の2つの無社殿神社があります。宇津木集落のはずれの山中にある矢倉神社は、天保時代の年紀が入った石灯籠と簡素な石垣で作られた祭壇の他は何もない、典型的な無社殿神社ですが、祭壇の上に4組の四角い石組みが置かれているのが特徴です。祭礼には地元の4家から榊が奉納されるといいますから、それぞれの屋敷神が一カ所に祀られた神社かもしれません。(2015.3.21)

宇津木の矢倉神社
石灯篭
宇津木の矢倉神社
祭壇

情報提供:古座川街道やどやの会

高瀬のサクラ並木

高瀬の桜並木古座川流域にはサクラスポットがたくさんありますが、古座川町高瀬地区川岸のソメイヨシノのサクラ並木は、川面に映る姿がとくに美しい場所です。ここは河原も広く、お花見を楽しむには格好のポイントです。3月下旬には咲くので是非古座川においでください。(2015.2.11)

情報提供:古座川街道やどやの会

渡船碑

古座川町役場より下流の稚児橋のたもとの川岸に「渡船碑」と呼ばれる2体の石碑が並んで建っています(古座川町文化財)。碑文によると享保八年(1723年)に建立されたとあり、元は池野山川の両岸に建てられていたそうで、どちらも背面に穴が貫通していることから、舟を係留する礎石としての機能もあったのではないかとみられています。
 花崗斑岩でできた石の上部には地蔵尊が、下部に碑文が刻まれています。碑文はどちらも同文で「願以比功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道 渡船之施主 池口村 中西勝応 享保八葵卯年六月三日(もうひとつは六月二十七日)」と書かれています。これは禅宗の回向文で「お経の功徳を広く衆生に及ぼして皆で成仏しようではないか」という意味です。碑文の解釈としては、当時古座組大庄屋だった中西氏が渡船を寄付したことを記念して建てたという説と、地元の廻船業者で伝説的豪商として知られた和田氏が渡船を寄付した中西氏の徳を顕彰するために建てたという説があります。
 昔は古座川も今より深く、千石船がこのあたりまで遡上したと言い伝えられており、川を使った物流が盛んで多くの廻船が往来した当時の繁栄がしのばれます。(2015.2.5)

渡船碑
渡船碑
碑の穴
碑の貫通穴

情報提供:古座川街道やどやの会

長尾街道

一等三角点がある分水嶺、峯ノ山(標高482m)をまくように、古座川町三尾川と串本町田並間をつなぐ山越えの古い街道があります。串本町側を田並街道、古座川町側は長尾街道と呼ばれています。長尾とは「長い尾根」の意味で、だらだらと続く長距離の尾根をひたすら下り、三尾川地区に至る連絡道で、かつては魚の行商人などが盛んに往来していたそうです。長らく林業関係者やハンターしか利用しない道になっていたのを最近、古座川町観光協会がウォークコースに活用しようと標識や木の階段などを整備しました。
 林道 和深鶴川線から、峯の水呑大師方面の林道分岐を経て三尾川方面へ、標識を目印に尾根にとりつきます。途中に熊野の主峰、大塔山と法師山を望むポイントもあり、尾根筋はシイ、カシ類の天然林が比較的良く残り、スダジイやイチイガシなどの樹齢数百年の巨木も林立し、自然観察路としても楽しめる道です。熊野古道だけでなく、その間をつなぐ、こうした集落間連絡道も郷土の歴史を秘めた古道として見直して行きたいものです。(2015.2.1)

長尾街道
長尾街道
大塔山遠望
大塔山遠望
スダジイの巨木の根
スダジイの巨木の根

情報提供:古座川街道やどやの会

峯の水呑大師

古座川流域と串本の海岸地域を結ぶ主要な生活道であった田並街道の分水嶺「峯ノ山」山腹に、弘法大師の石像が祀られています。台座の下から水が湧きだしていることから「水呑(みずのみ)大師」と呼ばれています。かつては水場として山越えの田並街道を行く旅人の喉を潤したと思われます。
 もとは街道沿いにあった大師像も、周辺が林道 和深高富線敷設によって大きく開削されたため、祠に参拝するには林道法面につくられた急な階段を登らねばならなくなりました。また、林道建設や山の人工林化のためなのか、湧き水も昔より量が少なくなりましたが、柄杓が置かれ、今もお大師さんの霊験を信じて、このお水を頂きに来る参拝者が絶えないようです。(2015.1.27)

峰の水呑大師
峰の水呑大師
峰の水呑大師周り
峰の水呑大師周り

情報提供:古座川街道やどやの会

2つの岩鼻地蔵

岩鼻地蔵古座川町高池の清水地区(写真)と古座川を挟んだ対岸の串本町古田の両方の川岸に「岩鼻(いわばな)」という地名があり、どちらにも地蔵尊石像が祀られています。この2つの地蔵について、次のような悲劇的な民話が伝わっています。
 古座川の奥地に昔は那智領の色川郷に属していた樫山という集落があります。古座川流域では、どんな奥地でも、お祭りに際して海で清めの潮を汲む風習があります。ある年の祭りのこと、潮汲み役になった親子2人が、例年は樫山と同じ那智領を通って潮汲みに行くのに、この年は最短距離を通ろうとしたのか、他領地であった高川原村を通って行こうとしました。ところが村に入ったところで見慣れない不審者と見とがめられ、諍いが起こり、親子は古座川に飛び込んで逃れようとしました。しかし、親は高池の岩鼻で、子は対岸の古田の岩鼻に泳ぎ付いたところを無惨にも討たれてしまいました。このあと、両岸の岩鼻では水難事故が相次ぎ、親子の祟りと恐れた村人たちが、供養のために両岸に地蔵を建てたということです。 (2015.1.21)

岩鼻地蔵2
古田の地蔵
清水地区
清水地区

情報提供:古座川街道やどやの会

松の前の庚申堂

中国の道教から伝わった庚申信仰は、平安時代に始まり江戸時代になって盛んになった無病息災、五穀豊穣、悪疫退散を祈る民間信仰で、各地に数多くの庚申塔が建てられ、道端やお寺の境内などでよく見かけます。古座川町の文化財に指定されている松の前地区にある庚申堂では、今も毎月23日に庚申講が行われています。ここの庚申塔は江戸時代中期の正徳三年(1713年)につくられたもので、正面に本尊である青面金剛が刻まれ、その脇には2童子、邪鬼、猿が刻まれています。(2015.1.16)

松の前の庚申堂
松の前の庚申堂全景
松の前の庚申堂
松の前の庚申堂

情報提供:古座川街道やどやの会

いくさ地蔵

古座川町添野川(そいのがわ)の日置川・田辺方面へ越える街道沿いの川岸に「いくさ地蔵」と呼ばれるお堂がひっそりと建っています。この地蔵には昔戦場から生還した若者にまつわる伝説があり、戦争が相次いだ時代には、「弾よけの地蔵」として出征兵士の無事を祈る遠来の参詣人がひきもきらなかったということです。(2014.1.13)

(いくさ地蔵の伝説)
 昔、添野川に母と暮らす彦八という若者がおり、選ばれて大坂の陣に出陣することになりました。彦八は母一人残して出発し、山をいくつも越えて田辺方面に向かいました。その途中、草むらに埋もれていたお地蔵様を見つけ、「もし無事に帰れたら、あなたを故郷に背負って帰り、手厚く祀ります」と願をかけました。やがて戦は終わり、彦八は元の山道を辿り故郷をめざしました。すると、ある場所で急に腹痛に見舞われ、一歩も先に進めなくなってしまったのです。このとき彦八は地蔵との約束を思い出し、あたりを捜すと、草むらに元の姿のままのお地蔵様がありました。彦八は約束通り、この地蔵を背負って故郷に帰り、お祀りしました。それから人々は、このお地蔵様を「いくさ地蔵」と呼ぶようになり、霊験あらたかな地蔵尊として信仰を集めるようになったということです。

いくさ地蔵
街道脇のいくさ地蔵
いくさ地蔵1
いくさ地蔵

情報提供:古座川街道やどやの会

洞尾の矢倉神社

洞尾の矢倉神社古座川の一枚岩の上流の旧国道沿いに洞尾(うつお)という集落があり、ここにも無社殿神社である矢倉神社があります。石垣、石段、石灯籠はありますが、鳥居や社殿はありません。
 矢倉神社は木を祀るとするケースが多いのですが、『紀伊続風土記』の洞尾村のところには、「寳大神の森、社(やしろ)なし、空神(そらがみ)を祀るという」と書かれています。この「空神」とは天狗をさして使われることが多いのですが、何もない空間であると解釈する人もいます。(2014.12.21)

情報提供:古座川街道やどやの会

一雨の道標地蔵

古座川町一雨(いちぶり)の旧国道の道端に、道しるべを兼ねた地蔵石塔が建てられています。正面に地蔵立像の浮き彫りがあり、左右に「右かわたけ 左みね」と道案内が刻まれています。「かわたけ」とは「川丈」、つまり古座川流域の道=古座街道を指しています。「みね」とは串本方面への山越えルート途中にある「峰」集落を指しています。明治17年(1884年)の年紀が入り、施主は「如好 俗名 助三郎」と刻まれています。(2014.12.8)

一雨の道標地蔵
一雨の道標地蔵
地蔵の周囲の風景
地蔵の周囲の風景

情報提供:古座川街道やどやの会

名医・瀧文貞の墓

名医・瀧文貞の墓古座川町添野川の湯の花温泉からダム湖に沿って約400mほど遡ったところに平井川という集落があります。そこに小さな庵寺があり、その境内に「瀧文貞墓」と刻まれた自然石の墓碑があります。
 文政十年(1827年)の年紀が刻まれたこの墓の主である瀧文貞は、伊予の国宇和島の出身で、元は松山藩の御殿医でしたが、酒癖が悪くて追い出され、各地を転々としたあと、この地に住着いたそうです。医師としての腕は確かで、地元の薬草から薬をつくって、奥地の多くの住民の病を治しましたが、トウガラシを肴に酒を飲む癖は生涯治らず、「大酒飲みのトンガラシ医者」として慕われました。そして、病気で困る者は墓にトウガラシと酒を供えてくれたら治してやると言って亡くなりました。
 死後も太平洋戦争前頃まで遠来の参拝者は跡を断たず、墓碑銘はトウガラシで赤くなり、墓石は酒でいつもジメジメ湿っていたそうです。いまも墓前にはトウガラシと酒が欠かさず手向けられています。(2014.11.30)

情報提供:古座川街道やどやの会

湯の花霊場・耳の地蔵

古座川町添野川にある湯の花温泉は、元は古座川支流の平井川河口付近に湧出していましたが、七川ダム建設で水没したため、いまは川底からポンプで吸い上げて、湯の花温泉古座川荘で利用されています。その古座川荘前の県道カーブの小山に石仏群があり、ミニ霊場となっています。この石仏群もダム湖への水没を避けて、この場所に集められたもので、一番高いところに如意輪観音、その下に徳本上人名号碑と道標地蔵(右ハ平井川、左ハ添野川と刻む)、さらに下に弁財天と薬師如来の祠が並んで建っています。
 ここで特に信仰を集めているのが「耳の地蔵」と呼ばれている薬師如来で、耳の病に霊験があると信じられ、穴の開いた石やセミの抜け殻が供えられています。いずれも「耳が抜ける」に通じるとされているようです。(2014.11.23)

ミニ霊場
石仏群
ミニ霊場1
弁財天と薬師如来の祠
ミニ霊場2
耳の地蔵

情報提供:古座川街道やどやの会

元若衆宿の建物

元若衆宿の建物司馬遼太郎著『街道をゆく=熊野・古座街道』の主要なテーマのひとつが「若衆宿」ですが、同書で昔若衆宿だったと紹介されている建物が現存しています。
 須田剋太画伯の挿絵にも描かれている(文庫版では省略されています)この建物は、元は古座川町鶴川地区の青年会館として建てられた木造洋館ですが、個人の手に渡り、現在の場所(古座川町月野瀬)に移築されたもの。改装されてはいますが、創建当初の面影はしのばれます。古座川流域には明治〜大正期に建てられた青年会館がいくつか残存していますが、ほとんどが当時はモダンだったと思われる木造洋館なのも注目されます。
 この建物は個人の所有であり、公開はされていませんので、無断で立ち入ることのないようにしましょう。(2014.9.8)

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蔵土の宝篋印塔

蔵土の宝篋印塔宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、五輪塔などと同様に、お墓や供養塔として使われる仏塔の一種で中国より伝わったものですが、時代により形式に特徴があり、塔の外観を見れば、ある程度製作年代が推定できるといわれています。
 古座川町蔵土(くろず)地区の墓地にある2基の宝篋印塔は、形式からみて製作時期は中世の室町〜戦国時代と推定され、江戸時代以降の近世に造られたものがほとんどである古座川流域の石造物にあっては中世の石造物はたいへん珍しく、平成23年(2011年)に古座川町の文化財に指定されました。
 宝篋印塔を建てるには、ある程度の財力が必要とされ、中世にはこの地域に有力な氏族が居住していたと考えられます。(2014.9.1)

情報提供:古座川街道やどやの会

峯の矢倉神社

峯の矢倉神社古座川町の峯ノ山のふもとにある峰地区には有名な「峯の薬師堂」がありますが、そこから嶽の森山へ向かう山道に入ったところにシイやカゴノキなどの巨木が林立している一画があり、崩れかけた祠、石垣、石段、石灯籠があり、祭壇正面に磐座らしい岩があります。ここが「峯の矢倉神社」と呼ばれるところで、熊野に多い自然を神とする社殿をもたない古代的神社のひとつです。この先にある「嶽の森(だけのもり)山」は修験者の聖地であったところで、この矢倉神社はその遥拝所だったのではないかとも言われています。(2014.8.28)

情報提供:古座川街道やどやの会

熊野水軍小山屋敷跡井戸

熊野水軍小山屋敷跡井戸JR古座駅から長澤芦雪の唐獅子図で有名な成就寺へ行く途中、線路沿いに古びた井戸(串本町文化財)があります。これが中世に古座川右岸の河口地域を領有し、熊野水軍として活躍した小山氏の館跡です。
 小山氏は、『紀伊続風土記』によると、鎌倉時代の元弘元年(1331年)、関東武士であった小山実隆(さねたか)が執権北条高時から熊野沿岸警備を命じられ、当時塩崎荘と呼ばれた古座川下流の地に一族郎党を引き連れて移住したのが始まりとされています。
 対岸の古座川左岸を領有した、やはり熊野水軍の有力領主だった高川原氏とは長きにわたって同盟を結び、戦乱の時代を通じて軍を出すときは共に助け合ったことが記録に見えます。小山氏は関ヶ原の戦いのときは豊臣方につきましたが、徳川時代になって紀州藩士待遇の地士にとりたてられ、子孫は紀伊大島の遠見番所の役人となり、米国商船レイディ・ワシントン号来航の際は詳細なスケッチを残しています。(2014.4.8)

情報提供:古座川街道やどやの会

六勝寺

旧古座町古田の山麓にある六勝寺は、熊野水軍領主で中世にこの地を支配した小山氏の菩提寺といわれ、嵯峨天皇の勅願所で弘法大師の創建とも伝えられていますが、火災のため一切の記録が失われ、創建年代なども不明のままです。
 境内には江戸時代に建立された四国八十八カ所と西国三十三カ所の二大霊場に対応した石仏群が整然と配置され、さながらミニ霊場となっており、長旅に出られない人々のために、いながらにして二大霊場参拝の功徳が積めるようになっています。(2014.4.1)

六勝寺
六勝寺本堂
ミニ八十八ケ所仏像
四国八十八ケ所、西国三十三ケ所石仏

情報提供:古座川街道やどやの会

県下最大のキンモクセイ

古座川河口に近い串本町西向・岩渕地区の民家に、和歌山県では最大といわれるキンモクセイの巨木があります。樹高約13m、胴回り約3m、樹齢は約200年と推定され、串本町の天然記念物に指定されています。毎年10月ごろ、小さいオレンジ色の花を木いっぱいにつけ、特有の甘い芳香が漂います。あまりの巨大さに、風向きによっては川の対岸にも香りが漂うほどです。
 キンモクセイはギンモクセイの変種で、中国原産のモクセイ科の常緑の高木。雌雄異株で日本には雄株しかないので実ができないといわれています。(2014.3.22)

県下最大のキンモクセイ
県下最大のキンモクセイの花

情報提供:古座川街道やどやの会

古田の地主神社

古座川右岸の古田地区に「地主神社」と呼ばれる鳥居も無く、石の祠だけの簡素な神社があります。祠の左側面には「奉建立 地主大明神御寳殿 宝暦八戌寅 五月吉祥日立」と書かれ、宝暦8年(1758年)に建立されたことがわかります。毎年、11月3日が例祭で、古座獅子の流れをくむ伝統の獅子舞が奉納されます。
 この神社の創建年代も由来も不明ですが、元々はこれを建てた庄屋宅に屋敷神として祀られていたものが、しだいに村の氏神となっていったのではないか、ともいわれています。(2014.3.14)

古田の地主神社
地主神社
地主神社の銘
側面の銘

情報提供:古座川街道やどやの会

青源寺と古城山

古城山案内板 旧古座町の大辺路と古座街道が交わる、かつて紀州藩の高札場があった「札の辻」とよばれた場所から東方向に山側に入ると「串本町史跡 古城山」と書かれた説明板があり、古びた急な石段を上がると曹洞宗の寺院「古城山青源寺」があります。その境内の大イチョウからさらに山道を上がると、頂上の草むした広場に出ます。ここが古城山で、中世に古座川下流左岸を支配した熊野水軍の豪族、高川原(たかがわら)氏の城塞があったところです。
 広場の南側の海に突き出した場所が一段低くなっていて、そこは眼下に海が望め、紀伊大島、九龍島、橋杭岩、潮岬などの絶景を見ることができます。ここには二の丸があったといわれており、海上や大辺路街道がよく見通せて、まさに水軍城にふさわしい要害の地といえます。
 高川原氏は、三位中将平維盛(たいらのこれもり)の後裔といわれ、対岸の古座川右岸を支配した小山氏とともに熊野水軍の勇将として活躍し、高川原摂津守貞盛は佐部の合戦で新宮の堀内氏に勝利し、その子帯刀(たてわき)は豊臣秀吉の朝鮮の役、大坂の陣などに出陣し戦功をあげました。青源寺は高川原帯刀が、その城館跡に建てたもので、庫裡の柱は城塞の材を流用したものといわれています。そして青源寺の墓地には高川原帯刀の墓といわれている五輪の塔があります。
 山頂の城跡には近代になって忠魂碑や記念碑などが建てられ、かつては公園として使われ、花見や運動会などが行われていましたが、地域の人口減少や少子高齢化などのため使われなくなって久しくなり、すっかり草むしてしまっています。(2014.3.7)

青源寺
青源寺
古城山案内板
古城山からの眺望

情報提供:古座川街道やどやの会

善照寺

阿弥陀仏三尊仏画旧古座町古座地区の古座街道沿いにある浄土真宗本願寺派の寺院、善照寺は、立派な石垣とナマコ壁が印象的なお寺です。入口の山門は時を知らせた太鼓が納められた鼓楼で、串本町の文化財に指定されています。寺宝として注目すべきは、鎌倉時代の作である「絹本阿弥陀三尊仏画」(重要文化財:非公開)があり、脇侍の観音菩薩が十一面観音として描かれている、他に例を見ない大変珍しいものです。
 善照寺は、石山本願寺の戦いに加わった紀州雑賀党の武将、山本善内之介弘忠が、天正9年(1581年)に創健しました。現在の本堂は江戸時代に入った明和2年(1765年)に地元産のケヤキを使って建てられたものです。また、本堂正面の梁には珍しい霊獣「龍亀」が二頭、彫られています。龍亀は、龍の頭に亀の甲羅をもった古代中国の想像上の生き物で、風水では幸運と金運をもたらすシンボルとして珍重されています。(2014.2.27)

善照寺
善照寺
龍亀
龍亀

情報提供:古座川街道やどやの会

大庄屋橋爪氏館跡

大庄屋橋爪氏館跡江戸時代、地方行政組織として数十ヶ村をまとめた「組」がおかれ、そのトップの村役人が大庄屋(おおじょうや)でした。大庄屋は、代官の命のもとに各村の長である庄屋をとりまとめ、年貢収納から警察まで広範囲な民政を取り仕切り、苗字帯刀を許され、大きな権限をもっていました。
 古座組は江戸時代末には紀伊大島から古座川の奥地に至る43ヶ村で構成され、幕末から明治維新まで大庄屋の任にあったのが橋爪氏です。橋爪氏は中世に鎌倉幕府の命を受けてこの地に領主として関東から赴任した小山氏とともに来た一族といわれる旧家で、その館跡が古田地区に残っています。今は家屋は取り壊され、館の周囲を取り囲む立派な石垣のみが残っています。
 津藩の儒者で紀行文『南遊志』で古座川を紹介し、流域の奇岩奇峰に名前をつけた斎藤拙堂を船遊びに招待し、岩峰に名前を付けるように頼んだのも、当時の大庄屋・橋爪周輔でした。(2014.2.20)

情報提供:古座川街道やどやの会

正法寺の庚申塔

正法寺の庚申塔江戸時代に民間で庚申信仰が大きなブームになり、各地に庚申塔がつくられました。熊野地方のお寺や辻々にも庚申塔が数多く残っています。中世に古座川左岸を領有した高川原氏の館があったといわれる旧古座町中湊の正法寺境内にも立派な石の祠をもった庚申塔が建てられています。文化7年(1810年)の年紀が刻まれたこの塔は、正面に御本尊の青面金剛が浮き彫りになり、上に日月、その足下右に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)、左に鶏が一羽刻まれており、典型的なデザインの庚申塔です。(2014.2.14)

情報提供:古座川街道やどやの会@@

峯の夫婦ヒノキ

峯の夫婦ヒノキ「峯の薬師堂」で有名な古座川町峰地区にヒノキの巨木が2本並んで立っていて、夫婦ヒノキと呼ばれています。スギに比べて巨木に育ちにくいヒノキですが、どちらも幹廻りは3m以上あり、大人が3人手をつないでやっと囲めるほどの太さがあります。薬師堂のすぐ下の林内に立つこの2本のヒノキは地元林業家から古座川町に寄贈されました。(2012.7.20)




情報提供:古座川街道やどやの会

神戸神社

古座川町高池の町中にある「神戸神社(こうどじんじゃ)」は、鳥居も社殿もない、熊野地方に多い自然を神とする無社殿神社のひとつです。写真に写っている社殿は、あとから勧請された境内社の稲荷神社のもので、本殿ではありません。
 江戸末期に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』には、高川原村の「神殿(かわどの)明神森」として登場し、「木を神体とす」という記述があります。「かわどの」から「かんべ」「こうべ」などと呼び名が替わり、現在は「こうどじんじゃ」と呼ばれています。境内にはスダジイやクスノキの巨木が立ち並び、背後の森林は熊野の典型的な照葉樹林で、古座川町の天然記念物に指定されています。鳥居がないことについて、神が鳥居を建てるかわりに、鳥居より高く火を燃やせと告げたという伝説があります。そして毎年11月15日に行われる例祭では、夕方から翌朝まで境内に積み上げた木材を燃やすので、「火焚き祭り」と呼ばれています。近くにある青年会「互盟社」に伝わる古座流の獅子舞もこのとき演じられます。(2012.5.29)

神戸神社
神戸神社
火焚き祭り
神戸神社の火焚き祭り

情報提供:古座川街道やどやの会

祓の宮

古座川町月野瀬の対岸、少女伝説の「少女峰(十七ヶ嶽)」より少し上流側に「祓の宮」と呼ばれている無社殿神社があります。石段、石灯籠と簡素な石造りの祭壇以外は何もありません。「紀伊続風土記」には「祓明神森」となっており「一丈廻りの櫟木(クヌギ)を神体として祭る。古より社なし」と書かれています。熊野に多い自然を神とする古代的神社のひとつと思われますが、「紀国名所図絵」には、祓いの神である「瀬織律姫(せおりつひめ)」を祭るとしています。現在はご神木も代替わりし、イチイガシの木がご神木となっています。また、神社境内の森は典型的な熊野本来の植生をとどめる森として古座川町の天然記念物に指定されています。写真の享保の年号が刻まれた石灯籠は徳川吉宗が寄進したものといわれています。
 例祭は霜月の11月下旬に行われ、参列者は川舟で対岸の神社に渡ります。宵宮から境内で火が焚かれ、本祭ではその残り火で「シトギの餅」を焼いて参列者にふるまわれます。「シトギの餅」とは水に浸して柔らかくした生米をついて粉にして、それを固めたもので、神に供える古代の餅の原型といわれています。(2012.5.13)

祓の宮
祓の宮
例祭に向かう舟
例祭に向かう舟
シトギの餅
シトギの餅

情報提供:古座川街道やどやの会

玉川玄龍の墓所

玉川玄龍の墓串本町中湊(旧古座町中湊)の玉川家の墓所に、熊野各地の地理、歴史、故事等を記載した、熊野研究には欠かせない名著『熊野巡覧記』の著者「玉川玄龍」の墓があります。玉川玄龍は泉州堺出身の医師で、本名を「武内養浩」といい、安永元年(1772年)に40歳のとき中湊村に移住。古座川の清流に感動し、姓を玉川と改めたといわれます。博覧強記で、森羅万象に通じ、多くの書を著したといわれますが、明治10年頃の火災で、蔵書がすべて焼失してしまいました。現在は『熊野巡覧記』の写本が古座高校や東京教育大学(現筑波大学)などに残るのみです。天保10年(1839年)に完成した『紀伊続風土記』が世に出る前に、これだけの地誌を著したことは偉業として高く評価されています。
 玉川玄龍の業績としてもうひとつ特筆すべきは、ペリーの黒船来航より半世紀以上前の寛政3年(1791年)、古座の九龍島と紀伊大島の間に米国商船レイディ・ワシントン号が停泊した際に、中国人の乗り組み員と筆談を交わしたことで、その後、紀州藩から通訳官に任命され俸給を受け取っています。
 玉川玄龍は文化10年(1813年)、80歳で没しました。墓石は大きな鬼御影でつくられ、本名の武内養浩と刻まれています。(2012.5.1)

情報提供:古座川街道やどやの会

旧古座街道-佐本川ルート

明治中期までの旧古座街道は、熊野中道(メインルート)と位置づけられ、佐本川方面経由で現在の上富田町朝来(あっそ)までが道筋となっていました。古座川町長追(ながおい)から佐本川に入り、福井谷集落跡から石段・石畳の残る坂道を上がり、峠を越えて、田鶴平から矢五郎坂を下り、現在のすさみ町佐本深谷へと抜ける街道は、炭などを運ぶ物流ルートとして使われ、途中には役の行者像などの石仏も祀られ、修験者や巡礼も通行した古道の趣きが残るルートです。「矢五郎坂」とは射られた矢を手でつかみ取ったという伝説の武将にちなむ名で、田鶴平(たずだいら)には城塞があったといわれています。なお、長追から佐本川に沿って田鶴平に上がり佐本深谷に抜ける道もありますが、これは近代に整備された県道で、車が通れる部分は古座川町とすさみ町の境界までです。(2012.4.22)

旧古座街道1
旧古座街道1
旧古座街道2
旧古座街道2
旧古座街道3
旧古座街道3

情報提供:古座川街道やどやの会

潤野下ノ滝

古座川町潤野(うるの)の名勝「三山冠」の肩から流れ落ちる「下ノ滝」は落差約20mの水量の多い滝です。潤野は古座川筋では数少ない広い耕地面積がある米所で、この滝はその水源にもなっています。滝壺から水路が引かれていますが、途中にシカ避けの高いフェンスがあり、正面から滝を眺めるのは困難です。潤野集落の下流山側から滝方面に林道が通っており、滝の上には容易に行くことができます。滝の上には不動明王と如意輪観音が祀られており、滝行の場であったのかもしれません。5月には滝の上から三山冠の山頂にかけて自生のシャクナゲが開花しますが、これほど標高の低いところに咲くシャクナゲは大変珍しいそうです。(2012.3.15)

下の滝
潤野下の滝
如意輪観音
如意輪観音

情報提供:古座川街道やどやの会

国王山

古座川町の国王山は、月野瀬からほぼ北約10kmの奥深い山です。古座川町には後南朝の後裔との伝承をもつ朝里氏関連の遺跡が点在しています。この国王山は、朝里氏(南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫の融仁王(みちひとおう)の子孫といわれている)が、追手を逃れ各地を転々とした後、たどり着いたところです。そして、世の中が安定した江戸時代になって後亀山天皇以下の祖霊を国皇大神(こくおうおおがみ=地元ではオガミ様)として国王山に祀り、ふもとの7ヶ村の氏神としました。山頂のお宮には各村からの参詣道が通じていますが、現在は林道武者屋敷(むじやしき)線沿いの場所に遷座され、毎年3月15日に近い日曜日に例祭が催されています。
 現在、山頂の宮跡にはは白木の柱が建てられていますが、そこからは紀伊大島などを望む絶景が広がり、ふもとからの参詣道には世界遺産大辺路長井坂にみられるような版築構造の道がいくつかつくられ、登山道としても楽しめます。(2012.2.21)

国王山1
国王山山頂の宮跡
国王山2
版築構造の山道
国王山からの眺望
山頂からの眺望

情報提供:古座川街道やどやの会

峯の薬師堂例祭

毎年1月12日に、山深い古座川町峰地区にある「峯の薬師堂」例祭が行われます。本尊は薬師如来で、薬師三尊像と両扉に仏法を護持する十二神将像が納められた厨子は秘仏として、年一回、この日だけ終日(7:00-17:00)ご開帳されます。
薬師堂の由来はよくわかっていませんが、熊野に隠れ住んだ平維盛の息子の六代が、京都から父に会いに来た折に寄進して行ったとする伝説もあります。
峰地区は今は住民2人しかいませんが、例祭には、ここを出自とする人々や、薬師如来の霊験にあやかろうとする近隣の人々で賑わいます。法要は午前10時から行われますが、以前は山伏による護摩供養も行われていたそうです。(2012.1.13)

薬師三尊
薬師三尊像
参拝者の数々
参拝者の数々

情報提供:古座川街道やどやの会

祥源寺と石塔群

古座川町高池の祥源寺(臨済宗妙心寺派)は天正年間(1573-1592年)の創建と伝えられ、中世に古座川河口左岸を支配した高川原(たかがわら)氏の住居がこのあたりにあったといわれています。高川原氏は色川郷に隠れ住んだ三位中将平維盛の子孫と伝えられ、高川原村(現古座川町高池下部)や古座浦(現串本町古座)を根拠地に、熊野水軍領主のひとりとして勇名をはせた豪族です。
 境内に入ってすぐ目につくのが、高野山や那智山あたりでしか見られないような巨大な石塔群で、当地が江戸期にはこのような石塔を建立できるほどの有力者が居住した土地であったことがしのばれます。石塔の多くは由来が不明な墓石です。また境内には、今は珍しくなったカヤの巨木が数本植えられています。(2011.8.27)

祥源寺の山門
祥源寺山門
巨大な石塔群
巨大な石塔群

情報提供:古座川街道やどやの会

写真提供:市民の力わかやま

鶴川の菜の花畑と司馬山荘

古座川町鶴川地区に数年前から地元有志が国道371号線沿いの遊休農地を活用して菜の花を栽培、約20アールの農地を鮮やかな黄色に彩る風景は、早春に古座川奥地を訪れる観光客の目を楽しませています。
この菜の花畑から国道をはさんだ山側に、『街道をゆくー熊野・古座街道』の著作があり、古座川の自然と風土をこよなく愛した作家、司馬遼太郎の山荘がひっそりと建っています。ここは旧庄屋宅だったところですが、ホテルに転用されそうになっていたのを古座川にふさわしい景観を守るためにと自ら購入、山荘を建設したというエピソードが伝わっています。(2011.2.25)

鶴川の菜の花畑
鶴川の菜の花畑
司馬山荘
司馬山荘

情報提供:古座川街道やどやの会

古座街道の道路元標

平成22年3月、串本町古座の和歌山東漁協古座支所裏の町道交差点に、古座街道の起点を示す道路元標が設置されました。「これより上 古座街道」「下 大辺路街道」「右 古城山」「左 大辺路街道」と記され、40cm四方、厚さ2cmの真ちゅう製で、デザインは東京日本橋にある「日本国道路元標」を模してつくられました。
 道路元標とは、全国に道路網を整備するための基準物として、旧道路法によって大正8年(1919年)に各市町村に1か所ずつ設置することが定められたもので、昭和27年(1952年)の新道路法施行にともない廃止されました。ほとんどが石柱で、和歌山県内には17個が現存しています。この場所には、かつて旧古座町役場があり、道路元標も設置されていましたが、たび重なる道路改修の中で、いつの間にか失われてしまいました。この場所はまた、江戸時代には紀州藩の高札場がおかれ、「札の辻」とよばれた往来の盛んだった場所で、地元民にかつての古座街道の賑わいと郷土史を意識してもらうことをねらって、新たに設置されたものです。
 なお、現在の古座街道は和歌山県道38号線(すさみ古座線)をさし、司馬遼太郎が紀行文『街道をゆくー熊野・古座街道』で通ったルートもこの県道でした。しかし、明治39年に路線が大幅に変更されるまでは佐本〜朝来間も古座街道に含まれており、川舟の往来が盛んで、海岸廻りの大辺路よりも距離が短い古座街道が、新宮〜田辺間を結ぶ主要物流ルートとしての機能を担っていたようです。また、豊かな自然景観と古い街並の風情が残る古座街道は、朝日新聞が行った読者アンケートで司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ中の「行ってみたい街道No.1」に選ばれています。(2011.5.10)

古座街道道路元標アップ
古座街道道路元標アップ
古座街道道路元標
古座街道道路元標

情報提供:古座川街道やどやの会

金比羅神社

金比羅神社岩山の中に祀られている珍しい神社です。地元の廻船業者が、船が海難から救われたのを感謝してお祀りしたもので、明治時代以降の創建といわれていて、そう古くからあるものではありません。この背後の岩山は、名を「負岩(おいわ)」といい、近くにある「高池の虫喰岩」と同様に、古座川弧状岩脈に属する「流紋岩質火砕岩」から出来ています。(2009.8.19)

情報提供:古座川街道やどやの会

互盟社

明治時代に創立された古座川町高池下部地区の青年会<互盟社>は、河内祭や神戸神社例大祭で演じられる由緒ある古座流の獅子舞を伝承しています。互盟社会館は当時としてはモダンな木造洋館で、注目すべきは玄関柱に古代ギリシャ風彫刻が施されています。石造物ではなく木彫であるところがユニークで、当時の大工の心意気が感じられる貴重な建造物になっています。(2009.7.15)

互盟社
木彫りの玄関柱
互盟社
外観

情報提供:古座川街道やどやの会

三山冠

三山冠潜水橋の向こうにそびえる山は「三山冠(さんざんかん)」と呼ばれています。ちょうど「山」の字のように上が三つの峰に分かれていることから付いた名のようです。
古代中国の役人が冠っていた帽子も「三山冠」と言うそうです。それに似ているのでしょうか。
この山頂付近にはシャクナゲが咲きます。(2009.6.10)

情報提供:古座川街道やどやの会

潜水橋

「潜水橋」は欄干がなく、増水時には水面下に見えなくなるのが特徴の橋です。高知県・四万十川では「沈下橋」の名で知られています。古座川にも、中流の明神地区に潤野(うるの)地区とを結ぶ潜水橋が、農道としてあります。1961年完成した全長約90m×幅1.5mの橋で県内では数少なく、アマチュアカメラマンらの人気を集めていました。
しかし、2006年6月の大雨で古座川が増水、この潜水橋は橋脚10本が流され、約30mにわたって倒壊、傾くなどの被害を受けました。町では安全のため撤去を計画しましたが「古座川のシンボルがなくなるのは寂しい」「文化財とも呼ぶべき財産」などと、町民から保存を求める声が相次ぎました。その声に押されて、町は復旧を決定し、2009年3月完成しました。(2009.6.6)

壊れた潜水橋
壊れた潜水橋1
壊れた潜水橋2
壊れた潜水橋2

復旧した潜水橋
復旧した潜水橋

情報提供:市民の力わかやま

復旧写真提供:古座川街道やどやの会

ぼたん岩と月の瀬温泉ぼたん荘

古座川町役場から一枚岩に向かう途中、月の瀬の道路脇に「ぼたん岩」があります。国の天然記念物「高池の虫喰岩」と同じく流紋岩質火砕岩が風水食を受けて虫が喰ったように穴がたくさん開いている岩です。この虫喰いの形がぼたんの花に似ていることからこの名が付きました。
月野瀬地区には昔から良質の温泉が湧き、古座川町は温泉宿泊施設を建設して「月の瀬温泉ぼたん荘」と名付けました。毎月第2日曜日に朝市を開催しています。野菜、漬物、田舎寿司、手作りお菓子、もち、干しシイタケ、干物など、山の幸から海の幸まで近隣から季節の旬のものが並びます(2009.2.7)

ぼたん岩
ぼたん岩
ぼたん荘
月ヶ瀬温泉ぼたん荘

情報提供:市民の力わかやま

原町の小堂

原町の小堂国道42号線に並行して大辺路は進みます。伊串→西向→原町と進んで民家の横に小堂があります。この小堂には石仏が三体納められています。中央に地蔵尊、地蔵仏は高さ1.5メートル。享保5年(1720年)の建立です。向かって右は徳本上人の念仏塔です。上人が布教した全国各地に建てられたもので、文化10年(1813年)古座阿弥陀寺に留錫され、その後文政13年(1830年)に西向、神野川両村の念仏講の人達が建立したものです。左側には「法華塔」と記された1.5メートルの刻経塔が建っています。これらの石仏は、古から古道を行き交う人々を見守り続けてきました。(2008.9.18)

情報提供:市民の力わかやま

成就寺

成就寺JR古座駅の裏手(北側)すぐのところに緑に包まれひっそりと成就寺があります。この寺には長沢芦雪の障壁画が残っているのが有名です。長沢芦雪は、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日)江戸時代の絵師で、円山応挙の高弟でした。天明6-7年(1786-87)、南紀に滞在した折、串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺に計180面の障壁画を残しました。成就寺の襖絵45面は、現在和歌山市県立博物館に所蔵されています。(2008.9.13)

情報提供:市民の力わかやま

高池の虫喰岩

虫喰岩古座川町役場から近く、東へ500mほど行った道沿いにある岩山です。国の天然記念物と認識している人は少ないです。
流紋岩質火砕岩が風水食を受けて虫が喰ったように穴がたくさん開いていることからこの名があります。高さ約60mもあり、このような大規模なものは珍しいということです。直径10cm内外、深さ4cm〜5cmの穴が多いですが、中には1mを超えるものも少なくなく、空洞となっています。ここで、穴の開いた小石に糸を通して願かけすると耳の病気が治るという言い伝えがあります。(2007.4.30)

情報提供:市民の力わかやま

犬が鳴いても山彦に

古座川町三尾川の光泉寺古座川町三尾川(みとがわ)の光泉寺では樹齢400年のイチョウの樹を拝むために板を3回叩くのですが、その音が見事な山彦になって返って来ます。近くの民家で飼われている犬の声も山彦になっています。(2006.5.16)

古座川町三尾川光泉寺への地図

情報提供:わかやまインターネット市民塾

一声10回、直見の山彦

古座川町直見古座川町直見(ぬくみ)の幹線道路沿いで体験できる山彦です。古座川の支流、小川(こがわ)にかかる明神橋から400mほど上流、民家の少し手前です。一声で10回山彦が返ってくることもあります。
ただ、条件が大変厳しく、真冬の良く晴れた早朝に、500m以内に一台も車が走っていない状態で「やっほ」と短くハッキリと、ありったけの大声で叫ばなければ体験できません。(2006.5.15)

一声10回の山彦(直見)への地図

情報提供:わかやまインターネット市民塾

樹齢700年の大樟

樹齢700年の大樟(くすのき)大樟(くすのき)は、南国から来た木という意味の楠(くす)と同じ木です。42号線から重畳山(かさねやま)へ向かう中ほどに樹齢700年近くの大樟が二本あります。幹の周が7mと8mもあって圧倒されます。(2006.3.31)

情報提供:わかやまインターネット市民塾

古座川町には・・・

古座川町には信号がまったくありません。勿論、コンビニもありません。しかし、清流古座川を下るカヌーのレンタル料金は、1,000円/日・人と日本一安いのです。また、「街道を行く」の司馬遼太郎は古座街道を愛し、鶴川に別荘を持ったほどです。(2006.3.31)
※カヌーのレンタル料金は平成19年4月より2,000円に改定されました。(2008.1.28)

情報提供:古座川街道やどやの会

古座の町

善照寺古座町は紀州藩直轄の鯨方があった捕鯨発祥の地と言われていて、僅かではありますが旧い民家も残る町です。また、応神天皇、ミツツオノミコト、そして河内様の祭神であるスサノオノミコトを祭る古座神社、雑賀党一門の武将山本善内之祐弘忠が天正9年に建立した善照寺などが歴史を偲ばせてくれます。善照寺には平安時代比叡山の僧、恵心作と言われる国指定重要文化財の「阿弥陀三尊像仏画」があります。(2006.3.31)                         (善照寺山門の写真を追加:2006.12.10)

情報提供:古座川街道やどやの会

御船祭(河内祭)

河内祭源平の合戦に出陣した熊野水軍をほうふつとさせるお祭りです。毎年、7月24日の宵宮には法螺貝が響く中、古座港を出た古式豊かな3隻の御舟が古座川をさかのぼり、河内様(こうちさま)と呼ばれる川中の小島を夜半までまわり続ける夜籠り神事があります。まるで絵巻物を見るようなお祭りです。鯛島と古座川の河内様が夫婦で、一年一度7月24〜25日に会えることをお祝いするお祭りとの説もあります。三隻の御舟と古座青年会による獅子舞「古座獅子」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。(2006.3.31)(写真追加2006.12.13)

情報提供:古座川街道やどやの会

重畳山(かさねやま)

重畳山串本から42号線を走り、古座川手前1kmで山側へ左折、林道を4km走ると302mの山上に出ます。山上には弘法大師が開祖といわれる神王寺と静かに立つ88体の石仏、そしてその奥に重畳山神社があります。何よりも素晴しいのは山上からの眺望です。南には眼下に大島、それを越えて太平洋が広がり、西には潮岬から続く枯木灘が連なり、北には熊野の山々、東には熊野灘が連なります。正に、正真正銘の絶景です。JR古座駅から往復10km、4時間の絶好のハイキングコースでもあります。(2006.3.31)


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