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扇ヶ浜海水浴場

扇ヶ浜海水浴場
扇ヶ浜海水浴場
ビーチハウス
ビーチハウス

平成17年7月にオープンした海水浴場です。シャワーや更衣室などが整ったビーチハウスがあり、海水浴期間には売店も開設されます。(2006.4.20)

駐車場 400台(1時間のみ無料)
TEL 0739-26-9929(田辺観光協会)

耳より情報

殿井戸

田辺城は、別名「錦水城」とも呼ばれています。
築城前にあった寺の井戸が、城内に残り、この井戸の水量が豊富であったため、水の豊かな城という意味で「錦水城」と呼ばれるようになったのです。
城下町の庶民はもとより、飲み水に困っていた、会津川対岸の江川の人々、さらには、扇ケ浜に入港する船乗りたちも使用が許可されていました。
城代家老や藩士たちも使っていたことから「殿井戸」と呼ばれるようになったそうです。
昭和の初めまで、近くの人々や、近在の旅館の飲料水として大切に使われていました。

錦水公園のすぐ近くにあります。水門見物の折りは、是非、殿井戸もご覧下さい。(2012.3.31)

殿井戸
殿井戸

情報提供:花つぼみ

錦水神社

錦水神社元和5年(1619)徳川頼宣が紀州藩主となるとともに、頼宣の付家老であった安藤帯刀は、三万八千余石を与えられ田辺城主となりました。以後幕末までこの城は安藤氏の居城(公的には「館」)で錦水城とも呼ばれていました。
 明治3年(1870)、田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまいましたが、跡地は錦水公園となり、その一角に錦水神社が建立されています。この錦水神社の西側には、僅かに残った水門に降りる石段が残っています。(2010.3.31)

情報提供:市民の力わかやま

法輪寺

田辺市役所東側にある撃鼓山法輪寺は、遠州から徳川頼宣に伴って来た田辺与力・西郷孫右衛門が元和6年(1620年)に、建立した曹洞宗の古刹です。
寺宝として、田辺市指定文化財となっている一切経(大蔵経)があり、南方熊楠は、この1955冊の経典を借りだして通読したと言われています。
また、脇仏の地蔵菩薩は、古くから歯の病に霊験があると伝えられていて、熊楠も「歯痛地蔵」と書き残しています。
墓地には、頼宣の重臣牧野兵庫の墓があります。(2009.3.30)
境内のケヤキの枝に、ま〜るく葉っぱが茂っているところがあります。これはヤドリギといって、ケヤキに寄生しているのです。ケヤキの葉が少ないこの時期が見ごろです。(2009.3.31追記)

法輪寺
法輪寺のヤドリギ
ヤドリギ

情報提供:市民の力わかやま

ヤドリギの情報と写真提供:NPO法人 花つぼみ

田辺城水門跡

田辺城水門田辺城は錦水城(きんすいじょう)ともいわれ、浅野家の家老「浅野知近」によって、慶長11年(1606年)会津川河口左岸に海にも隣接した平城(海岸、湖岸、沼地など低湿地、河口に築城された城)として築かれました。その後、紀州徳川家の付家老「安藤直次」が、元和5年(1619年)田辺藩主になって入城しました。そして、内堀と外堀を掘り水門を設けるなど改築したと言われています。
 明治初年に廃城となり城郭は解体され、その後堀も埋められました。今では、会津川に面した石垣と水門跡がわずかに昔の面影を残しています。現在、この石垣と水門跡付近は錦水公園として市民の憩いの場となっています。(2009.1.24) 

情報提供:市民の力わかやま

扇ヶ浜の夕べ

平成17年にこの海水浴場がオープンしたのを契機に、始まった夏のイベントです。
特設ステージでは、和太鼓やよさこい踊り、バンド演奏が繰り広げられ、イベントの最後には精霊供養花火で、約1500発が打ち上げられます。
美しい風景と夕日を眺めながら夕涼みのひとときを楽しく過ごせます。(2007.8.17)

和太鼓
和太鼓
よさこい踊り
よさこい踊り
バンド演奏
バンド演奏

写真提供:花つぼみ

田辺海兵団本部跡・田辺引揚援護局本部跡

田辺海兵団本部跡太平洋戦争末期、ここに海兵団本部が設置されましたが、終戦直前の7月28日深夜、大空襲を受け、兵舎10棟余と近所の民家30軒が焼失しました。
終戦後、田辺引揚援護局として残った施設はすべて利用されることとなり、検疫・入浴・夕食等を済ませ、宿舎で一泊した引揚者達は、証明書の交付や、乾パンなどの支給を受けた後、紀伊田辺駅から、臨時列車で故郷に帰って行ったそうです。
昭和25年にはすべてが撤去され、現在は記念碑だけが建っています。
神島高校正門前より50m位住宅街に入った所にあります。(2007.8.14)

情報提供:花つぼみ

海外引揚者上陸記念碑

海外引揚者上陸記念碑太平洋戦争終結により、海外から兵士・一般人を含め、630万人余が引き揚げてきました。演歌「岸壁の母」で京都府の舞鶴港が有名ですが、田辺も南方方面からの引揚港に指定され、220,332名が、ここ文里港に上陸、11,469柱の遺骨も無言の帰国をしました。
神島高校裏(海側)にあります。(2007.8.14)

情報提供:花つぼみ

磯間岩陰遺跡(いそまいわかげいせき)

昭和44年、岩陰周辺で住宅工事が行われたとき、人骨や須恵器が発見されたのがきっかけで見つかった遺跡です。
当時「人の骨が出てきた!」と、地元の人たちもびっくりしたのですが、その後の調査で古墳時代中期末から後期(5世紀末から6世紀後半)にかけての墳墓と分かり、また、びっくり! 竪穴式石室の系統を引く石室8基と、そこに埋葬された人骨13体、そして副葬品も多数見つかりました。身近なところに、古墳ってあるものなんですね。
出土品のうち、古墳時代の鉄剣、鹿角製品、土器類は、昭和63年に国の重要文化財に指定され、「田辺市立歴史民族資料館」に展示されています。

扇が浜のすぐ近くにある遺跡ですが、ちょっと入口が分かりにくいかも知れません。ただの岩陰にしか見えないのですが、国指定遺跡・・・宝物です。(2007.6.17)

磯間岩陰遺跡
磯間岩陰遺跡
田辺市立歴史民俗資料館
田辺市立歴史民俗資料館

情報提供:花つぼみ

鳥山啓翁顕彰碑と生誕の地

鳥山啓翁の顕彰碑扇ヶ浜公園の松林の中に「鳥山啓翁顕彰碑」と翁が作詞した”軍艦マーチの詞を刻んだ「軍艦碑」”が建っています。この「軍艦マーチ」は、パチンコ店から流れてくる曲として知られています。
 しかし、現在でも海上自衛隊の観艦式などで使用されている名曲で、ドイツの「旧友」、アメリカの「星条旗よ永遠なれ」とともに世界三大行進曲のひとつです。
 この「行進曲『軍艦』」を作詞したのが「鳥山啓(とりやまひらく、1837〜1914)」です。彼は、口熊野、田辺出身の教育者で、南方熊楠の和歌山中学校(現桐蔭高校)時代の恩師であり、博物学・作文などを教えました。
 海軍が出撃する時の勇ましい曲がこの“行進曲「軍艦」”で、日露戦争の時、日本海海戦に出撃する旗艦「戦艦 三笠」を見送った曲です。そして、海軍の静かな「鎮魂歌」が、万葉集の大伴家持の歌に曲をつけた「海ゆかば」なのです。(2007.6.14)

鳥山啓生誕地国道42号線を田辺市街に向け南下し、明洋交差点から県道210号に入り数十分歩き橋を渡りしばらくすると本町会館があり、敷地内には鳥山啓の生誕地を示す碑が建てられています。その隣には海軍大将、商工大臣や外務大臣など様々な大臣職を歴任した軍人であり政治家である豊田貞次郎の生誕地の碑が建てられています。(2011.1.5)

情報提供:市民の力わかやま

植芝盛平(合気道開祖)の像と生誕の地

植芝盛平の像扇ヶ浜の松林はカッパ公園として整備されています。その公園の中に合気道の創始者「植芝盛平の像」が立っています。
 古武道「起倒流柔術」、「柳生流」剣道から「技と心」を会得しました。そして柔道家「高木喜代市」と交わり、宗教家「山口王に三郎」の薫陶を受け、心技体が一体となる「合気武術」の基礎をつりました。
 昭和2年に上京、4年後「道場:皇武館」を開き、合気武術をさらに深めました。そして「ある時は空気のごとく、またある時は水の流れのごとく、相手の動きに応じて身体を預ける」が極意の合気道を誕生させました。この合気道は、各地に静かな広がりをみせ、昭和30年代には世界にまで広がるようになりました。(2007.6.9)

植芝盛平生誕の地国道42号線を田辺市街に向け南下し明洋交差点から県道210号に入り歩くこと数分の場所に植芝盛平の生誕地があります。
この地で植芝盛平は1883年(明治16年)に生まれました。現在は生家は残されておらず跡地を見ることができます。(2011.1.5)

情報提供:市民の力わかやま

扇ヶ浜海岸で壁面アート発見!

扇ヶ浜海岸の壁面アート 長い防波堤に一面に書かれた、魚・魚・魚・・・。メイヨウ・アート・クラブ・2006.7.11とサインがしてあります。
 明洋中学校の美術部が、暑い中、頑張って書いた作品だとか。駐車場から海に向かって右の方向に歩いていくと、見えてきます。(2006.8.21)

情報提供:花つぼみ


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