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南方熊楠旧居と南方熊楠顕彰館

南方熊楠旧居和歌山県が生んだ博物学・民俗学の巨星「南方熊楠(みなかたくまぐす)」が、49歳からの後半生を過ごした家が保存されています。5月14日開館予定の「南方熊楠顕彰館」では、南方熊楠の蔵書など約4,000点、その他資料(原稿・ノート・標本など)21,000点が保存されています。学習スペースもあり企画展示会も予定されています。熊楠の人生、偉業に触れて体感してみましょう。
熊楠は波乱万丈の人生をここで閉じ、田辺の町と神島を望む高山寺墓地に安らかに眠っています。(2006.4.20)

南方熊楠旧居

料金 大人300円、大高200円、小中100円
時間 10:00〜17:00 (入館は16:30まで)
定休日 毎月曜日及び第2第4火曜日
駐車場 市役所前の駐車場(1時間は無料)
TEL 0739-26-9909

南方熊楠顕彰館

南方熊楠顕彰館南方熊楠顕彰館のみの入館は無料で、時間等は南方熊楠旧居と同じです。

耳より情報

旧中部公民館

田辺市中部公民館昭和24年に田辺警察署として建造された建物です。昭和29年の警察署移転の後は図書館として利用され、さらに昭和38年からは中部公民館として長く使用されてきました。平成21年(2009年)に、中部公民館が田辺第一小学校内に移転したため、跡地活用が検討されていましたが、建物の活用方法も決まり、保存されることになりました。木造2階建てながら威風堂々とした建物です。(2012.2.8)

情報提供:市民の力わかやま

上ノ山西神社(西八王子宮)

上ノ山西神社(西八王子宮)県道210号より小道に入ると住宅に囲まれた小高い山の上に上ノ山西神社(西八王子宮)が鎮座しています。由緒書きによると明治6年に西ノ谷村の村社となったそうです。その後明治42年に、上ノ山神社より北東に位置する八立稲神社に合祀されるという経緯がありましたが、昭和26年に村人の願いが実り元の宮に帰宮しました。住宅街を見下ろす静かな高台から今もなお地域を優しく見守っているようです。(2011.1.27)

情報提供:市民の力わかやま

八立稲(やたちね)神社

八立稲神社鳥居八立稲神社の少し変わった名称は、「八王子の宮、八幡神社」の八、「出立神社」の立、「稲成神社」の稲を組み合わせたものです。
 最も古い「八王子の宮」は、天平勝宝8年(756年)の勧請、そして、天正18年(1591年)、豊臣秀長の臣、杉若越後守が上の山城主となってから武運長久を祈り「八王子の宮」と称したと言われています。この名が変わった東八王子社と明治40年(1907年)に、尾ノ崎の稲成神社、出立の出立神社(出立王子)、目良の八幡神社を合祀して「八立稲神社」となりました。その後更に42年に西郷の上ノ山西神社(西八王子宮)を合祀ししています。
 しかし現在は、昭和14年、出立神社は元の宮里に分霊され(出立王子社)、昭和26年、八幡神社、上の山西神社の2社は元の目良・西郷へ帰宮鎮座しています。
 この古尾の八立稲神社では、2月3日の節分の「人形焼納供養式」が有名です。田辺市内や周辺市町村から持ち込まれたたくさんの人形を焼いて供養します。(2009.1.29)

情報提供:市民の力わかやま

宗祇庵

宗祇庵八立稲神社の石段を下りてきてすぐのところに「宗祇庵」があります。
 宗祇は、姓を飯尾と言い、応永28年(1421年)有田郡藤並に生まれ、連歌師として一生を旅に過ごしました。田辺の地で「世を旅に 宿を刈田のほとりかな」という連歌の発句を残したと言われています。その時、宗祇が泊まったとすれば、上野城中腹のこの地が最も相応しいと考えた田辺の俳人「玉置香風」が、安永5年(1776年)の夏「宗祇庵」を建てました。そして、同時に「宗祇翁旧蹟の碑」を建てました。その側に「それも流れこれも流れて秋の水」という香風の師匠「二南斎智角」の句が刻まれています。
 香風は、二人の先達を顕彰するために、智角の七回忌にこの宗祇庵を開き、田辺の文人達が集う会所にしたのです。(2009.2.1)

情報提供:市民の力わかやま

西方寺

西方寺専念山西方寺は、龍泉寺・浄恩寺と同じく「田辺の町に過ぎたるものは江川の三ヶ寺」と言われた寺の最後の一つです。
 慶長12年、賢誉上人が西の谷御所谷から現在の江川に移し、中興開山となりました。同14年、浅野左衛門佐の家臣「石黒作左衛門」によって本堂が建立されました。この本堂建立の時に、豊臣秀吉の軍師であった竹中半兵衛の念持仏「阿弥陀仏」をもらい受けて本尊としました。また、紀州徳川家の執政「田辺城主城代安藤家」の菩提寺で一族の歴代の墓があります。
 その後、この本堂は二度再建されましたが、竹中半兵衛の念持仏「阿弥陀仏」がまだ現存しています。(2009.1.20)

情報提供:市民の力わかやま

浄恩寺

教主山浄恩寺は、龍泉寺と同じく「田辺の町に過ぎたるものは江川の三ヶ寺」と言われた寺の一つです。光誉岌山上人が開基で、御所谷に創建され、慶長13年、秀誉良山上人が現在の江川に移転したものです。本山知恩院弟83世門跡であった量誉信宏上人は、当寺の第20世住職です。山門には葵のご紋が彫られています。
 また、三十三間堂通し矢総一の弓士和佐大八郎の墓碑と豪弓や紀州備長炭の創始者備中屋長左ヱ門の墓碑もあります。(2009.1.17)

浄恩寺
浄恩寺山門
浄恩寺本堂
浄恩寺本堂

情報提供:市民の力わかやま

龍泉寺

龍泉寺龍泉寺は「田辺の町に過ぎたるものは江川の三ヶ寺」と言われた寺の一つです。今から1000年ほど前の延暦年間、大旱魃がこの地方を襲いました。その時、雨乞いの7日間に及ぶ有難いお経を聞いた小龍が、大龍王の許しを得ないままお礼に雨を降らせたとのことです。大龍王の怒りを受け、小龍の身は5つに裂かれて地上に落ちました。その5ヶ所に小龍を供養して建てられた寺の一つが龍泉寺だと言われており、それらの寺には泉ができ、こんこんと水が湧き出たそうです。
 その後、安珍を追いかけてきた清姫がこの泉の水を飲んで力をもらったということで「清姫の井戸」と呼ばれています。また、明治22年、勝浦沖でサンマ漁中の漁船が遭難して溺死した50名の供養碑も建っています。(2009.1.5)

龍泉寺本堂
龍泉寺本堂
清姫の井戸
清姫の井戸
遭難の碑
勝浦沖遭難者の碑

情報提供:市民の力わかやま

千田川吉蔵の墓

地蔵寺の前に力士「千田川吉蔵」の立派な墓があります。江戸の文化・文政時代、紀伊田辺の江川に大変な力もちがいたと伝えられています。成長して紀伊徳川藩のお抱え力士として千田川を名乗り熊蔵とも言ったそうです。大阪に出て大関も張りました。現在は、年寄名跡「千田川」として残り、元関脇「安芸乃島」に受け継がれています。
 田辺市立図書館に電子絵本「怪力 千田川」があります。(2008.12.20)

千田川吉蔵の墓
千田川吉蔵の墓
力士の寺
地蔵寺は力士の寺
千田川像
かわいい千田川の像

情報提供:市民の力わかやま

福田山地蔵寺

福田山地蔵寺は、東海近畿地蔵霊場35番の第31番札所です。有名な熊野別当「湛快(弁慶の祖父)」の元和の時代、新熊野権現宮(闘鶏神社)執行五院の一つ天真寺が、当山の前身でした。室町期の本尊、木造漆箔地蔵菩薩立像(丈四尺)や木造不動明王立像(丈二尺四寸五分)は非常に秀れたもので、共に市指定文化財に指定されています。また、校正新円覚経疏版木や般若心経注解版木も市指定文化財として保存されています。
 又、弘法大師が高野山を開創される時、田辺の豊田丸という富豪が資材を寄進して助けたという話が伝えられています。従って、この地方の弘法大師信仰の中心となっている寺です。さらに当山には金毘羅神王がお祀りしてあり、海上安全・大漁を祈願する漁師信仰も厚く大祭には大勢の参拝者で賑います。(2008.12.15)

地蔵寺本堂
福田山地蔵寺本堂
地蔵寺霊場31番札所
地蔵霊場31番札所

情報提供:市民の力わかやま

赤別荘

赤別荘JR紀伊田辺駅前の大通りから1つ路地を入ったところにレトロな建物が建っています。元貿易商であった旧長井邸で、大正末期の建築です。屋根が赤いことから、「赤別荘」と呼ばれています。屋根から突き出た煙突、白い窓枠がお話の中に出てくるお家のようで、とてもかわいいです。これまで何度か映画のロケに使用されたそうです。(2007.8.28)

情報提供:市民の力わかやま

かまぼこ通り

かまぼこ通りなんば焼・南蛮焼と書かれたお店が並ぶ「かまぼこ通り」の正式な町名は、「福路町」です。田辺市は城下町で、攻め入って来た敵が容易にお城に近づいたり逃げたり出来ない様につくられ、T字路が複雑に組合わされた袋小路から由来して付けられたといわれています。
 この通りで焼き上げられる紀州田辺の名産「南蠻焼(なんば焼)」は、新鮮なエソをすりみにした焼き抜き蒲鉾です。南蛮渡来の製法と言われるのが名前の由来となっています。製品の形が正方形で、天部のなんばきび色の丸型焼付けが特徴です。エソ独特の甘さと歯ごたえが好評です。焼き上がった後、1cm強ほどの厚めに切ってそのままわさび醤油や海苔などをつけて食べると美味しいです。(2007.8.26)

情報提供:市民の力わかやま

潮垢離浜と出立王子

海岸線を辿ってきた熊野古道は、ここ田辺から中辺路へ入っていきます。潮で身を清めるためにする潮浴びのことを潮垢離(しおごり)といい、ここ出立(でたち)王子前の潮垢離浜で行われました。現在は、小さい公園の片隅に腰掛け石と碑があります。建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が風邪をひき、出立での潮垢離の辞退を申し出たところ、厳しく叱責され、病を押して潮浴びをしたと伝えられているほど大切な儀式でした。
 また、 出立の地名は万葉集に「出立の松原」と詠まれ、平安末期の『中右記』には「田之陪(たのべ)に行き王子社に奉幣」と書かれており、田部(たなべ)王子とも言われたようです。王子社はもと元町西郷の御所谷附近にあったといわれています。明治になって八立稲神社に合祀されました。(2007.7.19)

潮垢離浜跡
潮垢離浜跡
出立王子
出立王子

情報提供:市民の力わかやま

高山寺(こうざんじ)と熊楠の墓

紀伊田辺駅の北の会津川のほとり、市街地を一望できる高台に立つ「弘法さん」と市民から親しまれているお寺です。草創は聖徳太子で、弘法大師が中興したとされ、弘法大師が近くの淵(御影淵)に姿を写して彫ったといわれる弘法大師像があります。豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちされました。
 江戸時代、文化年間(1804〜18)に建立の美しい多宝塔はじめ、広い境内には諸堂宇が立ち並んでいます。長沢芦雪の「寒山捨得」や「木造聖徳太子考養之像」等の県指定の文化財が保管されてます。熊楠の菩提寺で、海の見える墓地には、南方熊楠や植芝盛平の墓があります。熊楠は、生前にこの高山寺をよく訪れました。特に、この寺苑の一角にあった日吉神社(糸田の申神さん)境内から数多くのカビやこけなどの隠花植物を採集しました。
 この申(さる)神社の合祀と神木の伐採をきっかけに、熊楠は神社合祀反対運動を始めました。(2007.6.25)

高山寺
高山寺の多宝塔
南方熊楠の墓
南方熊楠のお墓

情報提供:市民の力わかやま

熊野古道の道標

熊野古道の道筋は時代とともに変わります。中世の熊野古道は会津川を渡らずに、川に沿って遡り中辺路に向かいました。近世になって城下町が賑わうように、熊野古道を街中に通すようになりました。旅篭が並んだ長町には、一晩に4,000人以上も宿泊の記録があるそうです。街中に入って、本町から長町を通り北新町の道標に至ります。道標には「右 きみゐ寺」そして「左り くまの道」、その下に小さく「すくハ(まっすぐは)大へち」とあります。近世、熊野詣の大部分の人は、ここを左に折れて中辺路に向かいました。
湯浅町道町の熊野古道沿いにも同じような「立石の道標」があります。(2007.1.10)

田辺市北新街にある道標
田辺市北新町にある道標
湯浅町道町にある「立石の道標」
湯浅町道町にある「立石の道標」

情報提供:市民の力わかやま


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